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Vol.72 春の穂高を滑る


ご無沙汰しております、育児の鬼・カネイワです。

去るGWは妻の両親が上京し我が子を可愛がってくれたので、その間2日ほどではありましたが山へ出かけることが出来ました。そうです、涸沢であります。

こちらの奥に写っているのは仲間の Taboo 氏が青春時代を過ごした涸沢小屋です。今回は深雪を割って歩くラッセル馬・モーゼ、強くて賢い安曇野女子・AKさん、そして私の3人パーティでテント泊でしたが、夜の帳が下り小屋に明かりが灯り始めると、涸沢小屋の宿泊客が羨ましくなるほど素敵でございました。

そんな自分を偽るため、「衣食住全部担いでやるのがオレのヤマだ」なんて昭和みたいなことを言ってみるものの、そんな空気の振動はただ虚しくテントの壁に吸収されるのでありました。

ともあれ入山です。恥ずかしながらGWの上高地は初で 涸沢に泊まるのも初めてです。穂高には昨年2度滑りに来たものの、いずれも2月、3月の人がほとんどいない時期でした。その時はそれぞれ白出のコルから涸沢奥穂から扇沢を滑りました。

人に会いたくないから山に入るわけではないですが、もともと社会不適合者気味の私は、そもそも人が多い所が大嫌いで、よってGWの涸沢などは通常選択肢には入りません。

今季は一度も穂高方面に来ていなかったこと、この時期2日で滑りを楽しめる場所が限られていること、滑りたいルートがあったこと等から、意を決して涸沢行きを断行したのであります。

こちらが河童橋から見た奥穂とその山頂から岳沢に落ちる扇沢です。この時期途中に黒い岩が露出していますが、真冬は真っ白で美しく、そして威圧的な斜面になります。一時期ここでパウダーを当てることを夢見ておりましたが、標高、斜面の向き(南面)、風、地形的なリスク等を考慮すると、これをやるにはライフがもう1つくらい必要だという結論に至りました。

なお、この沢はかつて北穂の小屋番だったレジェンド・次田氏によって初滑降されているそうです。

今回は初日に横尾経由で涸沢入りし、初日にどこかを滑り、2日目にここを滑って帰ることにしました。

山スキーでは基本アプローチにおいてもスキーを使うのがベストですが、さすがに5月では板とブーツを担がざるを得ません。横尾の橋を越えて雪が見え始めてから、ようやく板を履き、スキー歩行に適した場所を探して沢沿いを行きます。

穂高エリアがまだ滑れると言っても、観光や登山目的で来られる方がほとんどなので、沢渡からのバスでは周囲から浮きますし、荷物が多くて迷惑もかけます。河童橋を越えてからもしばらくは好奇の目に晒され、いい気分はしません。

「バカじゃないの」

「よっぽど滑りたいんだね、かあいそうに」

「転べ」

等とささやかれていることでしょう。

気にしません。

それを承知でここに来ているのですから。とはいえ、これらの声は厭世的で猜疑心の強い私の心を反映したものであり、実際には

「あの人たちどこ滑るんだろう」

「すごいね」

「いつかやってみたいね」

のような羨望に満ちた声も少しは含まれていたように思います。

しかしだからといって嬉しいとか、羨ましいだろう等という気分はほとんどなく、やはり

「皆いなければいいのに」

「人がいない山に行きたい」

という気持ちに変わりはないのです。

そろそろダークサイドに落ちそうなので、山の話に戻ります。涸沢へのスキーアプローチ、今回は横尾谷の右岸、屏風岩の基部を巻きました。デブリも多く、上部のハザードはなかなかのものです。既にかなりの雪が落ちているものの、気温が高いときには歩きたくない場所ですね。

本谷橋あたりから再び涸沢に向かう人の列に合流し、あとはひたすら沢を詰めてスキーで登っていきます。ここまで来ればもうすぐです。この日は風も少しあり思ったより快適でしたが、天気が良いため日焼けはかなりのものでした。

涸沢に着き、午後の滑りに出かけます。涸沢ヒュッテの天場にはテント村が形成されつつありました。時刻は12:30。

こちらは今回の目的の1つでありました2ルンゼ。雪付きが悪く、中間部に氷瀑が大きく露出していたため断念しました。このルートは2004年に吉田氏によって初滑降されており、私がググった限りでは他に記録がありません。

単純に滑るだけなら間違いなく隣の直登ルンゼやその途中から派生する1ルンゼが気持ちいいに違いありませんが、やはり他に記録が無い、より危険で人が少ない方に魅力を感じてしまうのが私の哀しい性癖であるらしいのです。

この日はどこかいいところを求めて登って行きましたが、昇温と共に湿雪雪崩がでろでろと下りてきたので、適当に滑って涸沢ヒュッテでお酒を戴き、たまたま遭遇したレジェンドたちのおでんをつつきました。

滑っているのは祥子さんという滑って撮れる素敵な女子

翌朝、涸沢から見た吊尾根。

こちらはレジェンド三浦氏が初滑降したというライン。昨日ヒュッテでお会いしたこの老獪なるレジェンドは、この日ここを滑ると話していたが、「必ず手に入れたいものは 誰にも知られたくない」という歌詞にもあるように、本命は他にあったようだ。

純粋かつ素朴、完全なる無垢、北海道のおおらかな大地で育ったこの俺は、「未知の要素」と単なる無知、怠惰を混同し続ける男、そう空前絶後の間抜け、トマホーク・カネイワ。海千山千の巧者たちの本当の狙いを後に知ることとなる。

我々に選択肢はあまりない。2日で下りないといけないため、この日扇沢を下りることは既定路線。

そしてあまり遅くなると日射と昇温の影響で雪崩が怖い。特に扇の形をしたこの沢は雪崩が集まるため、一日中遅くまで危険なルンゼを滑って遊ぶことはできない。

かと言って早立ちしても今度はカチカチのアイスバーンが怖いので、春のスキーは難しい。

というわけで、まずは人の多い小豆沢(ザイテングラートの横)を避け、朝のうちに短時間で直登ルンゼを詰め、奥穂山頂を目指すことにしました。

上の写真、岩に取り付いているのはこれからデナリの滑降を目指しトレーニング中の加藤氏らだったようです。

ふり振り返るとGWの涸沢を象徴する人の列ができています。

人が多いと感覚がマヒしそうになりますが、気温の高いこの時期、日射の影響を受ける斜面で長時間過ごすのは避けたいところです。

その後、順調に歩いて9時に奥穂山頂へ。扇沢の雪質を確かめたり、2ルンゼや西面の密かに狙っているラインを偵察したりして小一時間ほど山頂で過ごしました。

こちらが帰り道の扇沢。山頂からまっすぐのラインは先が見えない怖さがあります。

プロたちがきたあの向こう側に2ルンゼの入口があります。

さあ、滑ります!

扇沢の大斜面。以前はスキーヤーズレフト側を迂回しましたが、今回は雪も緩み、まっすぐ気味に滑降できました。

途中2度集合した後、扇の要を過ぎてルンゼ状の地形に入っていきます。

扇沢は南西~南東向きの広い斜面を抱える巨大な沢。しかもその場所で発生する雪崩もここに集まってきます。この日も例外ではなく、ジャンダルム方面から来る湿雪が沢心に小さな川と溝を形成していました。

そして来ました、湿雪雪崩。

この時発生した湿雪雪崩の一番近くにいたパートナーのチャイ PRO (チャイナで作られた GO PROっぽいカメラ)が、安物の SD カードにこの出来事を記録していました。

この動画を記録したモーゼがいた前後にある安全なポイントで待機していた私とAKさんは、これを冷静に?見ていました。

上にいたAKさんは早くからその存在に気づき、大声や警笛で知らせたものの、滑走中のザーザー音で本人には直前まで届かなかったようでした。結局、直前に私の声と雪崩の気配をほぼ同時に感じ取ったモーゼは、直前にこれを回避することができました。

雪質、気温、日射、地形、リスクに晒されている時間、諸々を考慮しても読み切れず、自然に負ける時がある。特にこの日は気温が高く、快晴。午前中でも関係なく雪崩が起きていました。

この時期のルンゼ滑降はリスクが高い、と再認識させられた出来事でした。

そうして我々は最後に快適な岳沢でのパーティランと壮絶な藪スキーを経て、時として自然よりも残酷で救いのない文明の地へと帰って行きました。

こどもの日に嫁子供、ひいては新居に遠路はるばる訪ねてくれた妻の両親を放置することは、一般的には万死に値するとされ、これが広く世間に知れ渡ると社会的な死を招くことになる。これは、被写界深度が浅いせいで、せっかくの五月っぽい置物にピントが合っていない問題とは比べ物にならないほど、深刻なのです。

山への欲望を抑圧することでなんとか家庭の平穏を保ったものの、スキーシーズンが終わるこれから、次の降雪までは我慢してポイント(仮想のポイントなので、実在しない可能性もあります)を必死に稼ぐことになるでしょう。

育児の鬼に待ち受けるのは、オムツ替え、買い物、炊事、日々の通勤、そして街で他人の山行記録を SNS で見る苦行なのです。

それが自分が密かに狙っていたラインで、しかも初滑降だったりした時にはなおさらであります。

セバ谷から白出沢に抜けるこのライン、以前白出を登る際に特徴的な廊下を見つけ、誰にも言わずにこっそり宝箱にしまっておいた場所でした。

扇沢を滑ったこの日、エントリーポイントも確認し、「まだ大丈夫だろう。また今度」と持ち前の呑気さで呆けていたら、まさか御大が狙っていたとは!

当日の日程でセバ谷を滑るのは可能だったものの、横尾経由でまた歩いて帰るのは気分的に無理だったので、選択肢には無かった。よって仕方なく、また御大たちの狙いを知っていたとしても、背中に圧力を感じて滑るのは何かが違う。滑るルートは計画(計画書には一応記載しておいた)と純粋に自然条件により決めるのが正しい。

おそらく御大は額縁に入れた忌まわしいフランシス・ベーコンの絵画の裏に隠し金庫を持ち、この滑降を他の未滑降リストと共に、長い間大事にしまい込んでいたに違いない。

これは地道な調査や経験、力量の結果。残念なことに変わりないものの、なるべくしてこうなったと言えるでしょう。

「人生には、無知と自信さえあれば良い。 そうすれば、成功は確実だ」

と誰かが言った。確かになんとなく滑降いいラインをいつかなんとなく初滑降できることはあるだろう。しかし、過去の記録を知り、周到な準備を経て実行に移すよりも、確率はかなり低い。

未知の要素が減るからとかつべこべ言わずに、この夏はベルクシーロイファーと孫氏でも読もうかと考えるトマホークなのであった...!

 

我々が扇沢を滑った日の午後、同じエリアで雪崩により1人の山スキーヤーが亡くなりました。穂高や富士山を中心に各地にシュプールを刻んだ方で、前日に上高地で会ってご挨拶したばかりでした。氏の生前のご活躍を偲びつつ、末筆ながら謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


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