Vol.58 山スキー文化の継承
もっともらしいタイトルをつけてしまったが、もちろん私は継承「する」方ではなく「される」方であることを予め断った上で、話を始めたい。
まず私が山スキー会のレジェンドとして尊敬する人物として、お二人の名前を上げたい。一人は YASUHIRO 氏であり、もう一人は三浦大介氏である(以降それぞれYSHR先生、三浦先生とさせて頂く)。もちろん海外の山で初滑降記録をもつレジェンドたちや、故人、別の世代や異なるスタイルを持つ人たちを含めれば、尊敬する人は他にもいる。
ここでお二人に話を限定したのは、長い間常に高いモチベーションで事に当たり、沢山のルートを開拓してきたこと、それぞれ異なるスタイルを確立し、強烈な個性を有していること、実際に私がお会いしていること、そして今それぞれの知識、経験を継承しようとしていることからである。
お二人のことは今更説明しなくてもわかる人も多いとは思うが、彼らのスタイルに対する私なりの解釈は次のようになる。
YSHR 先生はスキーの機動力を活かした山、スキー以外の道具では達成できない山行である。具体的には厳冬期のロングワンデイ(日帰り)山行、例えば白山、槍ヶ岳、立山(雄山)、薬師岳等で、いずれも氏が実践するまでは誰も実現していないか、控え目に言っても一般的ではなく、多くの人は想像すらしなかったであろうロングルートだ。YSHR 先生にとってスキーは第一に移動の手段であり、不可能を可能にする「魔法の翼」である。人が多い山域には出没せず、原則としてリフトは使用しない。
三浦先生の意識はより滑降、すなはちどの斜面を滑るかに向けられている。時としてアプローチにクライミングが含まれるクライム&ライドのスタイルを採ることもある。特に急斜面の滑降に注力しており、その初滑降リストは他を寄せ付けない。過去、現在の記録調査に余念がなく、氏の持つ別のリストには未滑降のスティープラインが山ほどあるとされ、数年以内に引退が噂される先生のリストが公開されると、ごくごく少数の狭い世界の人達の間で大航海時代が幕開けすると噂されている。
山行中に板を担ぐか担がないかは、小さいようで大きな違いであるように思う。つまり、スキーが移動のための手段か、滑るための手段かの違いである。移動のために必要な道具であれば登りでも担ぐことは無いだろうし、滑降の時に最大限に活かすのであれば、登りでは脱いでも構わないだろう。それぞれ「スキーでしかできない山行」「誰も滑ったことの無い急斜面」とコンセプトが明確に違うのであるから、最近はあまり一緒に行くこともないらしい。まさに両雄並び立たずである。
もう1つ共通して言えるのは、お二人とも体力が素晴らしくあるということだ。三浦先生は50を超え、YSHRさんに至っては60の方が近いと思われるが、私の目には33の私と同等か下手したら私よりも体力があるように映る。頑張れ私と思わなくもないが、並外れたお二人であればあまり対抗心も無い。どちらかというと向こうの方が「若い者には負けられん」という意識が強いような気がしてしまい、本当に引退する気があるのか、はた目からは大変疑問である。しかし、負けず嫌いだからこそ、体力的に第一線で活躍できなくなった時点で、あっさりと板を脱ぐのかも知れない。そう考えると、彼らと山で過ごせる時間はもう長くは残っていない。
特にYSHR先生の毎日更新されるブログはよく読んでおり、日曜と水曜になかなか更新されていないと「またどっかに登りに行ってるんだなぁ」と呆れるような、感心するような気持にさせられる。もしそれが無くなれば、心にぽっかり穴が開いたような、、、というのはいささかオーバーかもしれないが、やはり少し寂しい。彼らは間違いなく私にとってモチベーターなのである。
さておき、話を本題に戻そう。「山スキー文化の継承」である。といってもレルヒ少佐まで遡って文化について語るのは、もっと教養のある他の誰かにお任せしたい。ここでは年代的により身近な存在である前述のお二人のうち、先日ご一緒したYSHRさんの話を少しだけさせて頂きたい。
先生は日頃から来るもの拒まずという基本姿勢を示しており、一定の技術を身につけたモチベーションの高い者(特に若者)が好きなので、これを読んでいるあなたにも一緒に行く機会があるのだ。とはいえ「ほとんど寝ていないが行くしかない」と睡眠不足でも0時~3時に歩き始める(稀に4時スタートもある)モチベーション、林道歩きが苦にならないこと、最低10時間は行動できる体力、はぐれても一人で下山できる最低限の登山技術と経験、現地まで車で行けること、それから一部の装備、具体的にはウィペット、クトー、GPS(私は未だスマホのGPSなので、バレたらヤバイ)等が必要になる。しかしそれさえクリアできるのなら、一緒に山に行けないか聞いてみるものアリだ。数十年の経験を持った山スキーヤー、その経験と技術を現場で体感できることはそうは無いし、それはまさに山スキー文化の継承に他ならないのだから。
私が先生と出会ったのは約2年前。確か当時「YASUHIROのマウンテンワールド」の「独り言」で一緒に山に行く人を募集していて、それを見てメールしたのが最初だった。当時白馬に住んでいたさぶさん、金沢のゲンゴロウさんを含めた4人で行った東山が最初で、その後天狗原山、火打山に同行。いつの間にかトマホークというコードネームで呼ばれるようになっていた。その後は、SNSでごくたまに連絡を取っていたが、一緒に山へ行くことは無かった。去る1月の三連休、いつもの仲間とはぐれた私は、もしかしたらとYSHRさんにLINEしてみた。先生もたまたまお一人ということで、先生が開拓したルート・焼岳の黒谷に同行することになった。
久しぶりのYSHR山行は説教から始まった。というのも、つい最近私はニペソツで雪崩に流されており(詳細はこちらにまとめた)、安全意識の徹底について、私の行動の具体的な危険をいくつか挙げ、ご指摘を受けた。この年になって受ける説教は有難い。危険の判断については自分なりの考えを伝えつつ、基本的には有難く素直に説教を聞いた。これはどこかで期待していたことでもあったのかも知れないし、しかるべきタイミングで先生と再会したような気がした。この日の焼岳は、想像していた通り雪が少なかった。
場所を先生の定宿であるちろり庵に移し、説教は続けられた。よく先生が言う言葉に「難コースを滑降する事は当然リスクを伴う事で100%の成功率があるはずもなく、1%の失敗のリスクがあるなら100回山行を行えば必ず死を招く」「急斜面でも雪質が良ければ滑れる」というものがある。「だからそれほどこだわるな」「一か八かの滑降はするな」と諭されているようだった。先生の中には亡くなった新井さんや登山研修所で出会ったガムシャラな若者たちと今の私がかぶるようで、彼らの記憶はまだ先生の中で鮮明に息づいているように思われた。
最後に山スキー界の「絶滅危惧種」に指定され、先生と別れた。同じ情熱を持つものとして認められる一方、このままでは長生きしないリストに追加されてしまうという複雑な心境である。今は子育て10ヵ月目、息子の成長を見届けるため、素晴らしい山スキー文化を継承するために、より安全に気を配り、生きることに執着しながら、もう少しだけ自分の限界に挑戦するような山をしてみたいと思っている。
追伸: 前回(Vol.57)でトシ山田がCCCとか述べていたのは、Calgary Climbing Centerの略のようです。ちょっとどうでもいい情報ですが、これをもって回答とさせて頂きます。
これ以前は全て消去しました。何を書いたかも覚えていません。
毎日が完全燃焼出来る様な日々を送りたい、人生は長い様で短い。